昭和五十七年四月二十九日 朝の御理解


御理解第三十七節
生きておる間は修行中じゃ。丁度、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞい


 昨日午後の奉仕の時に、ここで御祈念をさせて頂いとりましたら、お知らせに”人力を引いておる人が、もうヘトヘトになって、梶棒をこう、下ろすところ”を頂いたんです。
 それで私、まあ昨日の研修の時にも、皆さんと研修して事でございましたが、例えば、一心を立てれば我心に神がござるからおかげになる、と、それは例えば、石の祠でも石の地蔵さんでもいい、例えば一心を立てて、その御祈念をするとかね、修行をさしてもらうと、そこにまあ奇跡と思われるようなおかげも立つのだと。教祖もその事をまあ、教えとられますよね。
 それはどういうことかというと、もう人間の力や知恵では、どうにも出来ないと分かった時、初めて神や仏とこう願う。それがただ、思うだけではなくて、一心を立てて、いわゆる御祈念をするとか、修行をする。
 そこにいうならば、奇跡と思われるような、人間の力、知恵では出来ないおかげが頂けるということです。ですから、私、そこから感じたことでございましたけれども、結局、信心しておかげを受けるということは、いよいよ神様、あなたのおかげを頂かなければ、ここ一寸動かれんのだと。も、ほんとに立ち行きがでけんのだと。
 自分で立ち入ってように、思うておった。自分でこれからこれまで、出来る用に思うておったというのではなくて、いよいよ、日田の堀尾先生じゃないけれども、障子一重がままならぬ人の身である。ということを本当に悟らせて頂くための修行ね。もう人間の知恵や力ではどうにも出来ない。神様か、仏様にすがるより他にない。
 これが私が昨日頂いた、いわゆるね、人力という人間の力ということだと思う。もうヘトヘト、どうにもしょうがない。そして、梶棒をこうして下ろしておるところですから、はあ、人間の力も、もういわゆる、これから神仏にすがるより他にないという、そういう姿であろうと思うたんですね。
 ですから、信心をさせて頂いて、おかげを頂く。これからこれまで自分が出来る、出けんところだけは神様にお願いしますといったようなところからですね。もう本当に生じ一重がままならぬ人の身である自覚、いよいよ我無力の自覚。人力を、も、かなぐり捨ててしますところの、いうなら信心ね。
 これはまあ以前に頂いた人力に見切りを付けて神力にすがれ、人力自ずから湧く、というその人力自ずから湧くというところに、今日の御理解の一生が修行じゃという、意味がいよいよはっきりしてくると思うんですね。
 難儀、苦労がいつまでも修行というのではなくてね、ま、修行と見る、いう生き方ではなくてね、いわゆる人力に見切りを付けるね。だからまあ、いろいろやってみて、ま、いっぱいをする、そこにま、自分の無力さ、というかいうならば自分で出来ると思うおったことが出来ない。
 それがはめになったときに、初めて自分はつまらんね、自分はもう出来ないというように分かっただけなら必ず、これは世の落後者になるでしょうね。そこからね、神様にすがらなければおれないのだ、すがるより他にもう手はないのだというところから、修行、本当の修行が始まるのですね。
 自分はもう、何をしても自分はダメだと、そこに落ち込んでしまうのじゃなくて、もう自分では何も出来ないという、ヘトヘトのところからですね、もうこれからは神仏にすがるより他に手はないというところから始められるところの修行です。
 ですからも、自分はつまらん、自分は何をしても、ダメだとただそのままでは、もうその落ち込んでしまう。いよいよ世の落後者になってしまわなければならんのですけれども、そこんところが分かる。いうなら神様のおかげを頂かなければ立ちいかんということを分かる。障子一重がままならぬ人の身であるということが分かる。そこからすがらずにおれない。そのすがらずにおれない、それが修行なのだ。
 だからこれは、もうやっぱり一生なんですね。私は一生が修行だというのは、そういうことだと思うです。ね。
 これが信心を抜きにしますと、もういうならば、も、自分はつまらん。自分は何をしてもダメだとこう落ち込んでしまう。
 自分はも、本当に無力さというものが分かったら、そこからね、いうなら神様のおかげを頂かなければという一心にすがる。この一心にすがる生き方から、人力は、もう、自ずから湧いてくるのですね。そこのところが私は修行だと、一生が修行というのは、ね、私共の思い方の中から、いよいよ我無力であるということを、いよいよ分かり、悟らしてもらうね。
 人力にいうなら見切りをつける。そこから、いうならばね、自分はもう、いよいよつまらん。ダメだというだけじゃなくて、そこから神仏にすがろうと。
 これは例えば、あの、いろんな問題、ま難儀な問題、もう人間の知恵、いうならも、医者からもう見放されたといったような場合に、何様でもよい。一心を立てて、拝むということは、もう自分の力、いうものは、人間の知恵、力ではどうにでも、出来ないと分かったその心が、そして、その心ですがるところに、いうなら、奇跡が現れてくるようなおかげも頂けると思うですね。これはだから何様でもいいのですね。
 それを例えば教祖様は、一生が修行とこう、教えられるのはね、人力を、に見切りをつけて、その後から、もう自ずから湧いてくる、いうならば修行。自ずから湧いてくる、お縋りする、そのちから、ね、そのものがね、いうなら限りないおかげにも限りない力にもつながっていく。いよいよ障子一重がままならぬ人の身であるということがわかったらね、分かっただけじゃいかんのです。分かったらそれから修行が始まる。
 その修行が一生ということなんですね。分かったから、だけでおかげ頂くのじゃないんです。ね。障子一重がままならぬ人の身である。だから神様の教えを頂いて、教えに基づいて生きる生き方以外にはないという教えを、本気で行ずるこ心にもなるだろうし、又修行も本気でさせてもらおうという気になるのです。
 そこからいわゆる無限大につながるおかげね、無尽蔵のおかげの頂けれる信心修行ということになるのです。ただ、そん時そん時に、例えばお金がない修行とか、不健康であるという、ま、それを修行で受けるとかいったような事が一生続くようなことであったてはならない。修行させて頂いとるうちにいよいよね、人力に見切りをつけさせてもらえれる。いうならばね、自分の知恵やら、力で出来ることは何一つとてないのだ。とこの神様のおかげを頂かなければというとき、
この神様の、いうならお心も分かろうと精進する。その又、お心のに添い奉ろうとする信心精進修行も出来るということになるのですね。    どうぞ